私が読んで面白かったなぁと思った本の感想を書いていきます。
すべて私の妄言なので、本気にしてはいけません。
Access VBA逆引きハンドブック
ACCESS2003以後のACCESS を勉強していなかったので、初心に帰って逆引き本を読んでみた。
ACCESS本来の使いやすさはもちろんのこと、データベース接続機能として DAO ADO はおなじみだが、ADOXという新機能もあった。
私が気に入ったのはADOの使いやすさだ。バージョン2003よりはるかに強力に、かつ、使いやすくなっているように思う。 企業開発のフロントエンドとして、十分すぎる機能がある。
基幹情報システムとして SQL + ACCESS が定石になる日も遠くないのかも知れない。
赤毛のアン
アン・シャーリーのイメージは、おしゃべりな、ちょっと理屈っぽい、大人びた、ハッキリいって私の苦手なイメージそのものの女の子だ。
この時点で、私は、マリラと同意見であり、マシューは、どうにかしていると思った。
しかし、話が進むにつれ、そのいたずらや失敗も含め、愛すべき女の子であることが分かる。
アンは、どうしようもなくそそっかしいが、不誠実ではない。いや、それ以上に真剣であり、人に対して真摯であろうとした。
それを最初に見抜いたのがマシューであり、時間を置いて確信したのがマリラであった。
私もマリラ的目線でアンを好きになっていった一人だ。
この本を最後まで読めば、誰も心のなかに暖かいものがふわっと湧き上がってくる。
アンネの日記
アンネ フランク (著), Anne Frank (原著), 深町 真理子 (翻訳)
内容は知らずとも、その背景にある歴史的な悲劇は皆が知っている。
だから、逆に読まなくても、この本にはある種の偏見があるのではないだろうか? 私も実はその一人であった。
その内容は、暗く、悲惨で、直視できないのではないかと思っていた。 しかし、読んでみると私の想像とまったく違った。
アンネは《隠れ家》に来る前は、男の子にモテまくり、女の子の友達もいっぱいいた。 本人いわく”おちゃっぴい”であったという。
《隠れ家》に来てからは、ファン・ダーンのおばさん、おじさんとの壮絶なケンカ。お母さんとの軋轢。仲がいいマルゴーとも喧嘩したり、そうでなかったり。 仲のいいお父さんにも生意気な手紙を出して喧嘩をしてしまうし、ディュッセルさんとも口論は絶えないし、それにペーターは陰気そうな変な男の子だし・・・。
日記の記述は、女の子としての素直な感情の表れだろう。 しかし2年に及ぶ《隠れ家》生活で、日記の内容は女の子から女性へと変化していく。
そして、アンネの日記は突然に終わってしまう。 このことが私にもたらす衝撃たるや、言葉で表すことができない。
打たれ強くなるための読書術
打たれ強くなるための読書術 (ちくま新書) (新書) 東郷 雄二 (著)
この年(40歳半ば)になって判ってくるのは、大人の世界というものはずいぶんいい加減な仕組みで構成されているという事である。
オペレーション・リサーチの博士号を持っている首相(ルーピーの事)のやることが、行き当たりばったりであったり、発言の根拠が、「インドの占い師が上手く行くと、かみさんが言っていたから」などであったりする。
こんないい加減なことが、許されていいのか?と、30歳ぐらいの私なら口角泡をとばして判ったようなことを言っていたであろう。なぜなら、物事には、慄然とした、イメージ的には、光輝く神のような、『正解』があると思い込んでいたからである。
「正解がない」や「混沌として判らない」というカオスの状態に耐えられない人は多い。
どこかに正解があり、手っ取り早く活字を読めば正解を知ることが出来るのではないかと思い込んでいたりする。
著者の東郷さんは読書を「受動的読書」と「能動的読書」に分類して説明をしている。詳しくは本書に譲るとして「受動的読書」とは、著者の導きのままに本を読む事であり、敷かれたレールの上を走る電車のようなイメージである。
対して「能動的読書」とは、その枠を超え、物事をメタ的に見ることの能力である。
世の中が、いい加減で、「正解」がないカオスな状態でも、その中に愛すべきものも多くあるという事が判るというのも「打たれ強くなる」ということではなかろうか。
永遠の0
映画を先に見てしまったので、映画と違ったと思う点で気になった点を一つ上げる。
原作ではチョウニチ新聞と思われるバカ記者が出てきて、「特攻はテロだ」と持論を展開するところがある。映画では、コンパで同級生友達がそのセリフを言っていた。
原作では、バカ記者は健太郎の姉のフィアンセだから、この発言には重みがある。
このバカ記者の発言は今の日本全体の認識ではなかろうか?彼らは狂信的愛国者で軍部に利用された可哀そうな人たちで、同時に加害者であると。宮部達英霊がこのことを知れば何と思うだろうか?彼らはこんな国を守るために死んだのであろうか。
『かくまでも醜く国になりたれば、捧げし人のただに惜しまる』
ある戦争未亡人の詠んだ歌だ。
我々はいつになればWGIPの呪縛から解放されるのか。
きつねの窓
きつねの窓 (おはなし名作絵本 27)
安房 直子 (著), 織茂 恭子 (イラスト)
おとぎ話というものは、作り話である。
いい作り話というものはまるで狐に化かされたような感覚になる。
この絵本がまさにそうだ。
猟師である主人公は猟の途中林の中で迷う。そこで少年に化けた狐に出会う。
少年は染物屋であるという。猟師は自分の指を染めてもらい、その指で窓を作りそこから眺めると、自分が見たいと思っている昔の情景や人を見ることができる能力が身についていた。
しかし、その能力は、指に青色がついているときだけであった。
この絵本をめくると、読者もいきなり青い世界に放り出される。その青の中に迷い、そして終わってしまう。
この話を感動的な話と見るか、物悲しい話とみるかは人それぞれだろうが、読者は幾許かの時間を狐に化かされるという体験を味わえる。
世界の日本人ジョーク集
世界の日本人ジョーク集 (中公新書ラクレ) (新書) 早坂 隆 (著)
筆者は東欧に滞在した経験を持つ。
ルーマニアで「おまえは何人だ、中国人だろ?」と聞かれ「日本人だ」と答えると「あの豊かで優秀な日本人が、こんなルーマニアにいるわけがない。」と言われたそうだ。
日本人は、キツネに譬えられる。それは、ずるく自己中心的なイメージがある。と同時に、キツネは賢いというイメージの象徴でもある。日本人をキツネに譬えるということは、日本人は賢いと思われているということだ。
今や政治的・経済的に話題の中心となるのは、日本人ではなく、中国人になってしまった。しかし、それは嘆かわしいことではない。日本人は本来愚直で、縁の下の力持ち的役割のほうが似合うと思うからだ。
この本の中で、印象に残った話を一つ。 ルーマニアで下水道に住んでいる孤児が筆者に言った言葉。「僕が寝ている時に使っているダンボールはSONYなんだ。僕の自慢さ。」
思考の整理学
思考の整理学 (ちくま文庫) (文庫) 外山 滋比古 (著)
「グライダー」と「飛行機」。人間の知的活動をこの2つに譬える本書は、読むと少し得したような気分にさせる本である。
私もご多分に漏れず、出来の良くない学生時代を過ごした。
馬鹿な学生の言い分としては、「こんなことを勉強して、一体何になるのだろう?」という疑問に答えてくれた教師がいなかったことと、もう一つは、左翼的な思想を持つ教師を、尊敬するに値しないと思い、内心馬鹿にしていた。
原因はこの2点だろうと、今振り返ってみて思う。
勉強は、しないよりもしたほうがいい。それは「いい学校へ行け」とか「一流企業に就職」という目標ではなく、学生時代をエンジョイするには、「落ちこぼれよりは授業が判ったほうがいいでしょう」程度のことだ。
東大を出て博士号を持っていても、ルーピーな人はいるごとく、いい大学に行っても賢い人になるとは限らない。
「グライダー」と「飛行機」。この違いは自立した人間と他人にけん引されることでしか行動できない人間の違いである。
一流大学を出ても自分では行動できない「グライダー」もいれば、中学を卒業し手に職をつけ世間に力強く飛び出す「飛行機」もいる。
そのどちらが優れているかなど、論をまたないであろう。
もう一つ、この本にでてくるいいキーワードは「セレンディピティ」だと思う。私のようないい歳をしたおっさんの勉強方法がここにあると思った次第だ。
虚構の家
虚構の家 (文春文庫) (文庫) 曽野 綾子 (著)
同じような年頃の子どもがいる二つの家族。
一見豊かで恵まれた家庭内に巣食う、暴力、引きこもり・・・・。
一方でまだ幼さを残しながらも芯が強くしなやかに真っ直ぐ育つ心。 変わりゆく我が子たちを受け入れられずに、目を背ける父親と空想の世界に逃げ込んでいく母親、そして崩れゆく家庭を見事に表現した作品。
1974年、30年以上も前に書かれた本である。 今なお、色褪せてはいないように思う。 思い立っては手に取り、一体何度読み返しただろうか。
いつ何度読んでも重く悲しく、そして盲目な母親の愛が圧し掛かる。 (JT)
ゴールデンボーイ―恐怖の四季 春夏編
ゴールデンボーイ―恐怖の四季 春夏編 (新潮文庫) (文庫)
スティーヴン キング (著), 浅倉 久志 (著)
スティーブンキングは、狂気と恐怖をたくみに表現し、読者をその中に叩き込む。
ゴールデンボーイの主人公「トッド」は最初から狂人だったのか、元ナチのドゥサンダーに話を聞いてから気が触れたのか、浮浪者を殺してから頭がおかしくなったのか、よくわからない。
ストーリーの後半の話の展開がスリリングである。
どこまでも追い詰められて主人公は、物語の最後の最後で、無差別殺人鬼に成り果ててしまっている。
ごく普通の人間が、ごく普通の日常を送っているはずなのに、ある時点を境に狂っていく。こんなストーリーを書かしたらキングの右に出るものは居ないのではないかと思う。
背筋がぞくっとしたい人にはお勧めである。(そうでない人は読まないほうがいい)
父の詫び状
私のような"バイアス"戦後民主主義教育を受けた世代に言わすと、戦前・戦中は色を失った世界だというイメージがある。
しかし、向田さんの描く戦前・戦中にも生活の色があり、笑顔があり匂いがあった。 あまりにも鮮やかなそれは、私には衝撃的ですらあった。
向田さんのエッセイには家族への、ごく普通で暖かい"愛情"が感じられる。
人に対して不器用にしか接することができない父。普段はおしとやかだが、ここぞというときに度胸を発揮する母。弟や妹。
先生や女学生の友達たち。孤児になってしまった友達。
向田さんの思い出がねずみ花火のように、あっちこっちに自由に飛び回り、そのシーンに私たちを誘う。
それは当たり前の光景であり、何も特別なことはないのだが、しかし、日々の生活に追われ、「世知辛く陰湿な事件が多発」している私たち現在の人間に、「ほら、これって幸せなのではないかしら」と改めて提示された気がした。
血と骨
血と骨〈上〉〈下〉 (幻冬舎文庫) (文庫) 梁 石日 (著, 原著)
小説とは単なる娯楽であって、ノンフィクションやビジネス書に比べるとその価値は低い。と思っていた私の価値観を根底から覆したすごい小説。
壮絶極まりないとは、まさにこの事。 主人公の金俊平は、読者の心に否応なしに、土足でズカズカと入り込んで、荒らし、掻き毟り、そして去っていく。
日々愚痴をいい「世知辛い世の中やっていけないぜ」なんていっている自分が、いかにアマちゃんであるかを頭から冷水を浴びせるかの如く判らしてくれる。
「小説とは、自分と違う人生を追体験することだ」というが、こんな体験はご免こうむりたい。
ちなみに映画化されていたが、原作の壮絶さの10分の1程度にパワーダウンしていたので、がっくりした覚えがある。
隣の家の少女
読書には、いろんな側面がある。
楽しむための読書。知識を得るための読書。そして、自らトラウマを作るための読書。
この本を読んだ後の後味の悪さたるや、反吐が出そうになる。
なぜ、人は、ここまで残酷に、冷酷に、そして狂っていけるのか。何がそうさせるのか?
また、この話が単なる創作ではなく、実話を基にしているということを知った時、脱力感に襲われること必至である。
自分の人生が虚無感に襲われたとき、さらなる虚無の世界に身を投じてみたい人におすすめである。
映画化もされているので、ご覧になれば、さらに言葉を失う。
猫鳴り
猫の『モン』を中心に3人の人生を描く。
赤ん坊を流産で失った情緒不安定の女。イライラしていて、公園で遊んでいる子供を刺殺したいと思っている少年。妻に先立たれ、体力と気力が無くなってきた初老の男。
それぞの人間に『モン』は関係をもつ。
猫の『モン』は、何もしていないが、それぞれ人間の心に安らぎをもたらしたのであろう。
人間の綺麗なところも、汚いところもひっくるめて、愛すべき存在であるというのが、作者の言いたいことだと思う。
それは、小説の中の話ではなく、この糞尿まみれのごとき現実の事を指して、いとおしいと作者は言っているのだろう。
プラグマティズムの作法
ISO9001の解釈を説明するときなど、「プラグマテッィクに考えて対処しましょう」などという時がある。
この場合は、「所詮、ISOは道具なのだから、使いやすいように解釈すればいい」という軽い意味である。
このようにプラグマテッィクとは、意外と軽い意味でつかわれることが多い気がする。
筆者は、言葉遊びに陥りがちな哲学をより実用的にするため、プラグマティズムを「お天道様に顔向けできるか?」「些細なことにとらわれずメタ的発想ができているか?」と具体的な事例で紹介している。非常に読みやすい本である。
新幹線に乗っていると、長身の眼光鋭い893屋さんかと思われる人が乗ってきた。誰ならぬ藤井先生であった。私は思わず「握手してください」と言ったら。「どーも」とにこにこされていた。
サインももらうべきだった。
月光ゲーム―Yの悲劇’88
大学生の有栖川有栖がサークルのメンバーと矢吹山へキャンプに。偶然、他の大学生グループ3つと一緒になります。合同でのキャンプファイアーやマーダー・ゲーム、食事作りとキャンプを満喫していた彼らに突然襲いかかった、山の噴火と事件。
噴火により帰路を絶たれ、事件は自然の中にいながら密室状態となって進行します。
中学生のとき、コナン・ドイル作品によって推理小説への扉をひらいた私ですが、ホームズの次に読んだのは、(アガサ・クリスティでもエラリー・クイーンでもなく)有栖川先生の作品でした。
探偵役にあたる人物のそばで、自分なりに事件を読み解こうとする目線で語られる。
そのため、読んでいて自然に光景を思い浮かべることができるのだと思います。
有栖川先生の数ある作品の中で、真っ先にこの「月光ゲーム」を紹介させていただこうと思ったのは、やっぱり一番好きな作品だからでしょうか。
なぜ、一番好きなんだろう。
好きだから好き‥‥という言葉のみで終わらせていてはコラムにならない、と思い、今回再読しました。
山の噴火も事件も、一度きりでは終わらない。月が昇ると事件も訪れる。
「犯人は月の引力の影響を受けているのではないか」
自然の中にうずくまっている彼らはこのような会話もしています。
有栖川有栖(アリス)が所属しているサークル、「英都大学推理小説研究会」の江神部長は、静かに状況を見つめながらも真相にたどり着いていきます。
本格ならでは、というのでしょうか。江神部長が犯人を確信するに至る情報すべてが出揃ったところで「読者への挑戦」があります。
つまり読者は江神部長と同じだけの情報を持っていることになり、それらをきちんと整理・組み立てることによって、犯人を導き出すことができるというのです。
初めて読んだときに私も推理を試みましたが、まったく分かりませんでした。けれど犯人を知った上で再読していると「なるほど!」と思えることが随所にあったのです。読み返しても新しい発見がある、というのもこの作品の一つの魅力だと思います。
「事件が起きたのは月の影響じゃないか」
という会話に対する、答えのような犯人のセリフがあります。
それがとても印象深く私の中に残り、やっぱり一番好きな作品だと再確認しました。
青春をたっぷり含んだ本格推理小説で、本当に何度読み返しても私を楽しませてくれる本です。
最後に‥‥、コラムを書いている最中にふと思ったのですが。
書くまでもないことかもしれません。
ですが、念のため。
著者・有栖川有栖先生も作中の大学生・アリスも、男性です。 (M H)
マイマイ新子
昭和30年の山口県防府市が舞台。
広い大地に麦畑が広がり、直角に曲がる川が流れるのどかな田舎で、新子のマイマイがムズムズすると、普通の日常の中で何かが起こる。
物語は短編ばかりなので、感情移入が浅くなってしまう。
印象に残った話を挙げると、新子が家族で広島の原爆記念公園に行く話がある。新子は「過ちを繰り返さない」のは誰が?と質問する。「原爆を落としたのはアメリカだから、過ちを犯したのはアメリカなの?」というと、大人たちは煮え切らない返事をする。「私が決死隊を作ってアメリカにかたき討ちをする」という。
この物語はアメリカという国を嫌いつつ、また、憧れもあり、どのように付き合っていったらいいのかを模索している戦後日本の姿がある。
Webアプリケーション構築技法
私は、仕事上WEB構築について、何となく知っている。(だいたい話を合わせることができる。)
しかし、マイクロソフトの ASPdotNET を使用して、業務アプリを作るというプロジェクトが現実になった時、「ASP?何それ、おいしいの?」的な人であった。
プロジェクトは進む。時間だけが過ぎていく。何をどうしていいのか分からなくなり、思考停止になっていく。「ああ神様、次に生まれ変わる時はイケ面でお願いします」と、祈る日々が続く。
私の悪運も尽きたかと思ってた時に、この本が助けてくれた。
本当に、この本1冊だけで、すべてが事足りてしまった。すごい本だ。
ASPdotNETに携わる人は、必ず読むといい。あなたの福音書となるであろう。