賢者は歴史に学び


賢者は歴史に学び、愚者は経験に学ぶ。

 オットー・フォン・ビスマルク

人生80年。自分にとっては初めての事ばっかりで、うまくいかないことが多い。
また、社会全体を人として見てみると、愚かしいまでに同じ過ちを繰り返していて、学習能力が無い愚者のごときである。

この「賢者は…」は、格言中の格言である。

過去に学ぶため、歴史をひも解いてみるのは、先人の大いなる知恵を得る行為だと思う。

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今日のつとめに田草取るなり


「この秋は雨か嵐かしらねども、今日のつとめに田草取るなり」

 二宮尊徳

人というものは、あれがああなったりしないか、これがこうなったりしないかと、とかく心配したがる。いろいろな想定をして心配することが、利口な人間であるような気がしている。

しかし、人の頭で考えていることなど所詮知れている。そう思えたとき、いい意味であきらめることができると思う。

収穫の時期に台風が来るかどうかは、お天道様次第であるなら、今、自分の足元で、やるべきことをやるだけである。

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恋の始まりに理由はないが、終わりにはある


『ま、恋の始まりに理由はないが、終わりには理由がある、って事だな』

 加持リョウジ

人が恋に落ちる瞬間というものがある。
見るもの聞くものが、ある一瞬を境にして違うものに見え、聞こえ、いとおしく思える。それはなぜか?そんなことに理由を探すようなヤボなことはしない。なぜならそれが恋というものだからだ。
しかし、終わるときはそうはいかない。
病気が治るように精神が冷静になれば、自分の不合理を説明したくなるというのが人間というものだ。自分の過去の正当性を主張したくなるから、理由が必要になるのだ。

このセリフを聞いたとき、加持さんカッコイー!思った。

しかし、私もおっさんになったので最近思うのは「理由なんてなくてええやん、カッコつけんでも」と思う。
「恋愛の終わりに理由なんかいらん。愛した事実は変わらへんから」←オレかっこイイ(アホ)。

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思考に気をつけなさい


思考に気をつけなさい、それはいつか言葉になるから。
言葉に気をつけなさい、それはいつか行動になるから。
行動に気をつけなさい、それはいつか習慣になるから。
習慣に気をつけなさい、それはいつか性格になるから。
性格に気をつけなさい、それはいつか運命になるから。

 マザーテレサ

世の中、よくわからん事がある。たとえば、あんな政治家やあんな人がノーベル平和賞をもらったりすることである。
その中でマザーテレサは、平和賞という名にふさわしい人だと思う。

この言葉は、思考の重要性を端的に表していると思う。投げやりになってしまう自分への戒めでもある。

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死ぬのはいつも他人なり


さりながら、死ぬのはいつも他人なり

マルセル・デュシャン


フランスの芸術家の墓石に掘ってある言葉だそうだ。

これを聞いたとき、なるほど、よくいったものだと感心した。

自分はいつか死ぬが、その事実と向かい合っていない。向かい合う精神力が今の私にはないのだろう。そんな人間の言葉は上滑りして、軽い。

死は「いつも他人」と思っている人間が、自分が「100%死ぬ」と言う事実を捉えると、自分が存在する時間以上の時間軸を考えることになる。それが大人の責任としての行動につながっていくのではないかと思う。

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死ぬる時節には死ぬがよく候


災難に逢う時節には災難に逢うがよく候 
死ぬる時節には死ぬがよく候
是はこれ災難をのがるゝ妙法にて候

良寛


江戸時代末期の禅僧で詩人、良寛。 こんな話がある。
良寛の名声をねたむ船頭がいた。川の真ん中で船を揺らして良寛を振り落した。泳げない良寛は溺れた。溺死寸前に船頭が引き上げたとき、良寛はこう言った。

「助けてくれてありがとう。あなたは私の命の恩人です。このご恩は決して忘れません」

「大愚」を名乗った良寛は、すべてを受け入れる覚悟があったのだろう。そんな人から出た言霊だからこそ、人々の心を揺さぶるのだ。


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眠れる豚は星を見ない


眠れる豚は星を見ない

松本零士


中学生の時読んだ、松本零士の漫画に出てきた言葉。
うる覚えでは『コックピットシリーズ』のある狙撃兵の名言。
意味的には

「命がけにならないと、本当に美しいものを見ることはない。」

的な感じだと受け取り、ハードボイルドで、自分とは程遠いイメージ。「俺もこう生きなければ」と思い、非常に印象に残った。

で、今回wikiで調べてみれば、『大純情くん』だった。

全然違っていた。

でも、中二病の私の心に響いたのであった。

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メメント・モリ(memento mori)


メメント・モリ(死を想え)

(ことわざ)

”あいつが、こう言った。どう仕返しをしてやろう。”

”こいつが、私を裏切った。腹立たしい。死んでも許さない!!”

メメント・モリ memento mori

あらゆる者の上に死は平等にやってくる。

一時の人生の、短い期間の、一瞬の線香花火より儚い憤怒や悲嘆の感情に、全人格を支配される愚かさを、この言葉は気づかせてくれる。

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やむにやまれぬ 大和魂


かくすれば かくなるものと知りながら  やむにやまれぬ 大和魂

 吉田松陰

日頃政治のニュースとかを見るにつけ「なんだ!この国は!!」と思わず言ってしまいたくなる。

自国を「この国」というのは、国と自分を対立させた冷たい見方であって、本来は「我が国」というべきである。

「我が国」といういい方は、「自分」と「国」が一体であり、結果(国)がいかようなことであろうと、原因(自分)がそれを引き受ける覚悟があると表明している言い方である。

吉田松陰は、そんな生き方を極めた人であると思う。

私も戦後教育で育ったウスラサヨクだが、松陰の生き方は、そんな私でさえも深いところで揺さぶってくれる。

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歴史は虹のごときもの


歴史というものは虹のようなものである。それは近くに寄って、くわしくみれば見えるというものではない。近くに寄れば、その正体は水玉にすぎない

渡部昇一

日本人に生まれた責務があるとするなら、それは先の大戦を「日本人の物語」として語ることだと思う。
かく言う私の歴史観も、白人優位史観であり、日本人劣等史観であった。(今もそうかもしれない)

「戦争を語るなど、体験しない者が何をぬかすか!」と怒鳴られそうであるが、生意気なことを言わしていただければ「戦争体験者は”戦闘体験者”であって、”戦争”は体験していない」のである。
まして、規模の大きい戦争になると、その解釈に100年・200年を要するのは当たり前である。私世代(40歳代)は、団塊・共闘世代ではなく、極左教育が薄らいだ世代である。よって発想が偏っていない。

ふと空を見上げれば、きれいな虹がすぐそこにあったことに気づくのである。

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諒とせられよ


心身の不自由が進み、病苦が堪え難し。去る六月十日、脳梗塞の発作に遭いし以来の江藤淳は、形骸に過ぎず、自ら処決して形骸を断ずる所以なり。乞う、諸君よ、これを諒とせられよ。

江藤淳

『人の命は地球より重い』
ダッカでの日航機ハイジャック事件で、時の総理、福田赳夫が言った言葉だ。

この言葉は胡散臭く思う。軽薄に感じる。
そんなひねくれた私に、頭から冷や水をぶっかけた言葉が江藤淳の遺書であった。
第一印象としてとりあえずカッコいいではないか。死を直前にしてこんな文章が書けるのは、純粋に「すごい人」だと思った。
また、真剣な人だとも思った。漫然と生きている『造糞機』(寅さんのセリフ?)のような私ではなく、一瞬一瞬を真剣勝負で生きている人の凄みのある文章だ。そんな江藤淳に対して、「自殺はダメだ」と、誰が説得出来るであろうか?

世の中の軽薄なヒューマニズムに対して江藤淳の一文は、大きな一石を投じていると思う。

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利巧な奴はたんと反省してみるがいいじゃないか


僕は政治的には無智な一国民として事変に処した。黙って処した。それについて今は何の後悔もしていない。 大事変が終った時には、必ず若しかくかくだったら事変は起らなかったろう、事変はこんな風にはならなかったろうという議論が起る。 必然というものに対する人間の復讐だ。はかない復讐だ。この大戦争は一部の人達の無智と野心とから起ったか、それさえなければ、起こらなかったか。 どうも僕にはそんなお目出度い歴史観は持てないよ。僕は歴史の必然性というものをもっと恐しいものと考えている。 僕は無智だから反省なぞしない。利巧な奴はたんと反省してみるがいいじゃないか。

小林秀雄

テレビやラジオで、新聞や雑誌で、どこどこ大学の教授や評論家、いわゆる知識人という人たちがいろいろなことを言っている。

私はあまのじゃくであるから、基本的にそのような人種の言葉を信用していない。(というかテレビや新聞も見ていないのだけれど。)
でも、信用するか否かを判断する基準は、

まず1つに終始一貫して同じことを言っているかという点。
2つ目に歴史の連続性としてのコモンセンスがあるかどうか
である。

この2つにおいて、小林秀雄はぴったり合っている。しかも、堂々としていてカッコいいと思う。言い回しは難しくて、文章の理解は出来ないのだけれど、小林秀雄を通して学ぶことは多いと思う。

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わざとだよ


わざとだよ?

川村幸子

名言の宝庫少女漫画「NANA」の3巻78ページ。

バイトで深夜まで働いているショウジとサチコ。閉店してからダッシュで階段を駆け上がらないと終電に間に合わない二人。
ある日サチコはヒールの高いミュールを履いていて、階段途中で脱げてしまい終電は行ってしまう。
「なんでそーゆー靴はくかな…」と困った顔をするショウジにサチコは「わざとだよ?」と悪気なく言う。

ズっキューン!!

いいおっさんが年甲斐もなく少女漫画を読んでいたのだが、これはやられた。妄想が頭を駆け巡った。はるか昔にあった(あったのか?)青年時代の恋心が少し蘇った気がした。

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わたしの琴線に触れた言葉を紹介します。

更新情報

2014/09/06 「わざとだよ」追加しました。

2014/09/06 「諒とせられよ」追加しました。

2014/09/05 「歴史は虹のごときもの」追加しました。

2014/09/01 「恋の始まりには理由がないが」追加しました。